
はじめに
北海道は十勝20市町村の一番西に位置する町、新得町。トムラウシ山など大雪山系の山々のふもとで、牧畜・農業が中心の人口七千人程の小さな町である。

16年前、1人の怪しい記録映画監督がこの町に引っ越してきた。藤本幸久、彼がこの空想の森映画祭の仕掛人である。「なぜ映画祭を?」という答えはいたってシンプルだ。自分たちの楽しみを自分たちで創っていき、それを膨らませていきたいとのことで、要は、ここを舞台とした映画をみんなで創りたい、そして世界のいい映画をみんなで観たいということだ。
新得を舞台にした映画が完成した
映画づくりは、94年からクランクインし、新得町を舞台とした映画『森と水のゆめ』が98年に完成した。これには私もスタッフの一人として関わった。登山をする人なら誰でも憧れる山、トムラウシとその裾野にほんの少しだけ残った原生林に暮らす、当時七十六歳の小川豊之進さんが案内役として出演している。上を見上げても空が見えないほど、大きな木がびっしりと生えていたかつての森が、小川さんのまぶたの裏に今も焼きついているのだ。同時に、その森の変わり方もつぶさに見てきた人でもあり、森のことを話す小川さんの語り口には、重みがあり、森に対する愛しさがあふれている。

その他、音楽は、農業のかたわら自分で歌を作ったり、バンドを組んで演奏活動をしている宇井ひろしさん、映画の中の語りは、同じく農業のかたわら、旦那さんの秀雄さんと二人で人形劇をやっている能登真由美さんなど、基本的に新得町に住んでいる人たちがスタッフだった。第二回目の映画祭でこの映画のお披露目上映をしてから、北海道各地で上映をしてきた。
廃校になった小学校がメイン会場
映画祭の方はというと、1996年のゴールデンウイークの少し前の頃だった。この頃の私は会社を辞めた直後で、これからどうしていこうかと考えていた時期だった。偶然、帯広のパン屋〈のんびり屋〉で映画祭のプログラムをもらい、何やらおもしろそうなコトをやっているなぁと、参加してみた。この第一回の空想の森映画祭が、今の私が夢中になっていることの始まりであり、キッカケであり、私の中で非常な思い入れのあるモノになったのだ。

新得町の中心地から10キロほど離れた新内という集落に、40年ほど前に廃校になった新内(にいない)小学校がある。ここがメイン会場だ。そのすぐ近くには川が流れ、周りは牧草地だ。木々の緑が美しく、校庭の中央に一本の大きなカシワの木が立っている。木造平家の小ぶりの校舎の教室は三室、ここは今、新内ホールと呼ばれ、一部屋は天井の木の梁を出した音楽ホールに改装してあるが、昔の小学校の雰囲気が残っている。この新内小学校のもつ雰囲気が空想の森映画祭とマッチして何ともいえない心地よい空間となるのだ。
初めて参加した私は(スタッフもお客さんも誰もが初めてだったのだが)、とにかく楽しく、うれしく心地よかった。この時のスタッフは、地元新得町の人たちで、農業をやっている人、郵便局員の人など様々だった。
祭りに欠かせないオヤジたち
この時の私は、誰がスタッフでお客さんかということはさっぱりわからず、とにかく心から楽しんでいる大人たちを見ていて、私もいっしょに楽しんだ。のちに、私も関わっていくようになって、誰が誰だかわかってきたのだが、いやはや、みんなそれぞれ個性のある魅力的な人たちなのだ。たとえば、インディアン。彼は芳賀耕一という立派な名前があるのだが、なぜかみんなから、インディアンと呼ばれている。コンピューターや数字に強く、映画祭の会計をまかされている。本業は、その頃養鶏業だった。私が映画祭事務局をやった三回目の時は、映画祭の最中にハンディパソコンを小脇に抱え、素早くパチパチと数字を入力し、収支の随時報告をしてきてくれた。というのも、過去二回の映画祭は共に赤字で、この三回目の時もギリギリのところでやっていた。

会計のインディアンとしては、なんとしてもトントンに収めたかったのだ。だから、企画段階であれもこれもやりたいという私たちと予算のことでは随分と論争したものだ。そして、三回目で初めて黒字になったものだから、インディアンの喜びもひとしおだったのだろう。パソコンを抱え、うれしそうに走り回っていたインディアンを見ていて、私も嬉しいやら、おかしいやらだった。

もう一人、新得町の郵便局員の西村堅一さん。カミナリオヤジのようなルックスで、一見コワソーなのだが、実は違う。曲がったコトは大嫌いな有言実行型で、人への心配りや細やかな人情の厚い男なのだ。お酒が大好きで、飲むとガハハハハーとでかい声で笑い、コテッと寝てしまう。西村さんは、小川豊之進さんの娘マサ子さんの夫で、七十歳の小川さん(今は故人)を山へ連れていって、すっかりやみつきにさせた人だ。新得で生まれ育ち、小さい頃から山が好きで、基本的に単独で山に入る。経験豊富で同時に勉強家である。私は、西村さんの山に対する姿勢、謙虚で大胆なところが好きだ。このような西村さんと藤本カントクが出会い、『森と水のゆめ』ができたのだと思う。当時、西村さんは新得町サホロ岳から襟裳岬近くの追分峠まで、日高山脈全山縦走に挑戦中だった。とにかくこのオヤジさんは映画祭には欠かせない存在なのである。
他にも沢山、魅力的な人たちがこの映画祭に関わっている。
その人たちの手づくりの祭りという暖かさ、一生懸命さ、連日の飲み会、ドキュメンタリー映画との出会い、そして何より、こんな大人たちがいるんだというヨロコビ。祭りが終わって日常の生活に戻っても、その時の興奮がさめなかった。祭りの後、映画祭で一緒になった仲間と、もの凄い勢いでいろいろなことにチャレンジした。あの祭りで、私の中に何だかわからないが、ワクワクするようなパワーが入ってきたのだと思う。
祭りのテーマは衣・食・住へ
そして、回を重ねてきて、三回目くらいから映画祭の方向性が段々はっきりしてきた。
ダイオキシン、環境ホルモン等の地球規模で取り組まなければならない問題が深刻化する中、大気、海水でつながっているこの地球に、本当に安全なところなどないのではないか。考えれば考えるほど、人類は滅亡してしまうのではないかと考えざるをえない。それでも、今、私たちはその地球に生きているわけだ。じゃあ一体どうやって生きていけばいいのか。自分たちの周りの仲間と話していると、この地球も人も捨てたもんじゃないよと思えてきた。やっぱり、私たち一人一人が自分の暮らし、日常を見直し、今までの価値観を見つめ直すことが第一歩で、映画祭の根底のテーマとなった。

私たちの暮らし、つまり衣・食・住が、この映画祭の大きなテーマとなった。そして、映画、ワークショップ、講演、コンサートといった異なったものを同じテーマで関連づけ、観て、聞いて、実際に自分の手や体を使って何かを作ったり、体験できるようにした。つまり、一つのテーマを多角的にアプローチできる立体的、参加型映画祭となった。

例をあげると、昔ながらの方法でチーズをつくる老人が主人公のスイスの映画、新得町共同学舎でチーズをつくっている宮嶋さんの話、実際に共同学舎でチーズをつくってみる、といった具合だ。この試みは、参加者にも大好評だった。以来、映画祭はこれを基本にプログラムを組み、その他、野焼きで作品をつくったり、屋台、投げ銭ライブを公募したりして、盛りだくさんの祭りとなった。

私は初めて主催する側の立場になったこの年の映画祭の一日目から、「ああ、あと三日で終わってしまうのか」と教室の天井の梁、お客さんの顔、スタッフの顔を見るにつけ、その空間すべてのものがとても愛しく感じた。みんながイイ顔をしていた素晴らしい映画祭だった。
